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各種産業の発展

1.お菓子類の登場

菓子類が商品として登場してくるのは、一般に元禄のころという。特に砂糖を用いるようになってからは、その種類が激増し、現在の和菓子の種類はほとんど出そろった。長岡では白砂糖を用いた上菓子と、黒砂糖を用いた駄菓子の別があった。上菓子として知られるのに、玉子製の「鶴の子」という蒸菓子、「千歳」とか「烏婆玉」という求肥製のものなどがあり、その他砂糖を用いた「有平(有平糖)」や砂糖に穀物の粉を用いた干菓子の落雁や打ち物、及び煎餅などがあった。

黒砂糖を用いる駄菓子は雑菓子といった。これをつくる者を桶組とか飴屋桶組といい、長岡城下の南、飴屋町(千手町)に住みその元締めは桶頭と呼ばれ、香具師と露天商の取り締りも行なって羽振りをきかせていた。飴屋桶組が製造したのは飴一切と飴製の菓子類、たとえばおこし類、甘草、胡桃などで、これらを独占的に取り扱った。

戊辰戦争の際に長岡藩では紅屋、和泉屋、大和屋、大久保屋に命じてパンを作らせた。車麩のように丸形の真中に孔をあけて、これを20個ずつ糸でつないで、携帯用の非常食として実際に用いられた。カステラはもっと早くから販売されていたという。

2.織物の歴史

木綿織物は各戸で手織物をもちい、少し上等のものは見附・小須戸・亀田から買い入れた。そのなかでも細い綿糸を混ぜ合せた結城織は、町人の間でもてはやされた。これは農家の副業として盛んに織られるようになった。長岡藩は農民が、長岡の機屋から織機を借りて機屋に従属させられることを嫌って、天保13年(1842)に、農家の結城織を禁じた。しかし、なかなか守られず、再三にわたって禁令を出しても徹底しなかったので、藩は寛永4年(1851)には、農事に差し支えのないようにとの条件つきでこれを許し、そのかわり役銀を徴収することにした。

3.酒の製造

酒造りは貢租の中心となる米を原料とし、その使用量が米価にも大きく影響するために、もっとも厳しい統制を受けた。幕府は明暦3年(1657)酒造業の株の制度を決めたが、長岡ではその株がいつ定められたのかわからない。長岡の酒造株は、古来53株といわれ、元禄元年(1688)および享保9年(1724)にはそれぞれ52軒の酒屋があった。藩ではしばしば他領からの酒の移入を禁止して、城下の酒造家の保護に努めたが、しだいに領内の在方地主酒造家が進出してきた。寛政12年(1800)の記録によると、在方の酒造家が町方の休株を年数を限って買いうけ、出店同様に営業したという。在方地主が小作米酒造りに有利に利用したものであろう。しかし、少し前の寛政元年(1789)には長岡領内の酒屋数87軒のうち23軒も休業し、造米石高は四千百石余りと規模があまり大きくなく、経営も安定していたとはいえない。

長岡領に隣接した蔵王・中島・雨池・摂田屋などの蔵王領では、徴税がゆるやかで農民に余裕があり、酒造りの制限も緩やかであった。全国的に酒造制限が加えられた時も、ここでは御神酒を献上するということで多くの酒を造り、残酒の名目で売ることができた。特に摂田屋村では天保11年(1840)ころに5軒の酒造家があらわれ、同領内の酒の7割を生産し、そののち越後有数の醸造地のもとになった。

4.醤油の製造

江戸時代に、醤油は一般に高価なものであった。そこで藩士も農民も自家製の味噌を醤油に代わる調味料とした。味噌が熟成した時に、その中に棒などを突きさして穴をあけ、そこにたまった水分を豆油(たまり)といい、これがこの時代の醤油の俗称となった。

当時の長岡味噌は大豆と塩を麹を原料とした。これに対して、小麦と大豆とで作った醤油麹と塩水から醸造した、本格的な醤油製造のはじめは、裏二之町の上州屋大里伝兵衛という。彼は元草相撲の力士で、藩主忠成に贔屓され、大胡から長岡移封の折に随行して長岡に住み、忠成の配慮で醤油製造をはじめたといわれる。

その後、次第に在方でも醤油の製造と販売が行なわれたらしく、藩から天保13年(1842)にこれを禁じている。しかし、小麦の生産が少ない長岡領内では、醤油の生産も少なく、多くはタマリが利用され、購入する醤油は蒲原方面のものが多かった。

5.長岡仏壇の歴史

長岡仏壇は今から約200年以前、長岡を中心とした地域で、寺院、社殿等の建立に全国から集まった宮大工、仏師、彫刻師、塗師などが、冬期間に内職のかたちで仏壇製造を手がけたものが、その起源と伝えられている。その後、仏壇の普及と需要の増大とともに、天保元年(1829)頃から仏壇の専業化が確立したといわれている。

長岡仏壇の技法は、京仏壇・三河仏壇の影響もあったともいわれているが、金箔仏壇の技法は、文化年間に開発された越後漆器の金銀磨塗の影響を受けたものといわれている。そしてそれらの技法は今日まで伝承され木地、彫刻、金具、漆塗、金箔押、蒔絵等に伝統的技術そして長岡仏壇に息づいている。

明治から昭和にかけて長岡の仏壇は、仏壇産地として基盤を確立し、その耐久性と品質のよさで大きな評価を受け、国内有数の金仏壇の産地として、今日に至っている。

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